流寓

スパークリング自我形成

うるさい

わたしに何かしてほしいと思わないで対価もなしに要求しないで

自殺を考えない

すごいんですけれど一人でいるようのなってから全然自殺のことを考えなくなった。大学から去年辺りは何かにつけ自殺を考えていてロープを片手にうまく首が括れそうなでっぱりを探したりごうごう唸る夜の川を眺めたりクラクションの騒がしい大通りを見下ろしたりみたいなことが一切ない。


われわれのすべての災禍はわれわれが孤独ではいられないことに起因している。そうだね


人間不信

ひとは好き。わたしの人生は人に恵まれていたと思う。生きにくさは大体はわたしの気難しさが原因で、友達はみんな優しくて、周囲の人々はみな素晴らしかった。たぶん、そうじゃないところもあったのだとは思うけど、わたしは目を瞑っていた。その方が生きるのが楽だから。何もかもが気の持ちようなら天国だと思い込んでいた方がいい。

それが悪かったのかな。
ひとは悪意によってではなくても人を傷つけることができてしまうってわたしは去年死ぬほど血反吐を吐きながら知った。もちろん時間が経てば経つほどあれはわたしが主に悪かったとはわかってきた。わたしは逃げられたのに逃げなかったし、助けを呼ばなくてもだれかが助けてくれるはずだって甘えていた。ひとは自分の足元に鈍感だし、声を上げないものには見向きもしない。わたしが悪かった。そうだね。ごめんね。でも許せなくてごめん。

未だに人間不信が治らない。
もともとなものが去年悪化した。秘密主義はより強固なものになって誰にも本当のことを言えない。いま本当は色んな社会人クラブに顔を出してますとか、新しい免許を取ろうとしてるとか、転職活動してますとか。いやまあもちろんこれも嘘。
秘密にしていたことを喋った。同居していて気が緩んだ。もう自分もいっぱいいっぱいだったから、この人なら大丈夫と、わたしの周りはいいひとばっかりだったからと。
バカだね。結末は一個だけ。
あの傷が癒えない。同居してたころ、約束を守ってくれなかったことより、なにより、それが未だに膿んだままでいる。わたしは本当のことが言えない。全部嘘。ごめんね。


あのとき。まだ夢に見るひとたちがいる。あのひと、そのひと、あと猫が一匹。
人生で抱えきれなかったもの。
夢になんて出てこないでよ。

あの1年間のこと

当然創作ですよ。

 

2015年の11月17日。インド哲学のゼミで大好きな先生とおしゃべりをしていた時。他愛ない時間だ。カーマ・スートラのことか、さもなければ連続性を欠く猫の話。そんな風に冬の夕暮れを消費していると、スマートフォンが震えた。メッセージの通知。

一人の女の子からだった。

この女の子とはネットで知り合った。たまたま近くに住んでいたので、一月に一度会うこともある仲だったけれど、感覚としては友だちの友だちというのが近い。単に同じグループに属しているだけの子。端的に言ってしまえば、わたしはこの子が苦手だった。でも嫌いではなかったし、見習うべき点も多かった。単純に相性の問題だったというのもある。彼女は見栄を張りたがる節があり、わたしはそれにいつも苦い思いをしていた。(みんなに見てもらうということに、多大なプレッシャーを感じる性質なのだ、わたしは)

連絡の内容は、「しばらく泊めてほしい」ということだった。詳しい日程等はなく、今日から泊まりたいという話だった。

わたしは学生寮に住んでいた。大学の女子寮で、収納なし六畳の個室以外はすべて共同の施設。現代の監獄みたいなものだ。家賃が馬鹿みたいにやすいことを除けば土下座してでも住みたくないような。

女子寮だけあり、寮則は厳しい。男性はもとより、親族の立ち入りにさえ許可がいる。でもまあ、年頃の女の子であればまあ1日2日バレやしないだろう。布団は1組しかないけれど、お互いそう体格がいいわけでもないし同衾でかまうまい。

わたしは了解の返事をした。緑色の風船がぽこりと浮き上がって、ついには戻ってこなかった。それを戻すすべはこの世のどこにもなかった。

 

 

女の子は身1つでやってきた。

親に荷物を差し押さえられたのだという。聞けば家賃か何かを滞納し、保証人に連絡が行き、何事だと家を引き払われてしまったらしい。そのようなことがこの世にあるのだなあと思った。他人事だった。他人事だから同情した。

「好きなだけ居ていいよ」

わたしには人間を拾うという経験があった。中でも、わたしを嫌っている人間と一月匿ったことは記憶に新しかった。そんな人間と暮らせたのだから、彼女とならばそう難しくはない。同情心からわたしはそう口にしていた。

女の子は「貴方ならそう言ってくれるって、彼氏も言ってた」と言った。女の子には二年近く付き合った彼氏がいて、何度か顔を合わせたこともあった。背の高い、顔色の悪そうなひとだった。

正直、彼女がわたしを選んだ理由は分からなかった。今でも分からない。彼女の話では彼女にはたくさんの優しい友人がいるみたいだったし、あっちも別段わたしを好きというようにも見えなかった。

 

 

女の子は仕事に疲れ切っていた。

 

詳細は伏せるが、とても厳しい職場らしい。心身ともに疲弊しているらしかった。折悪く、退職手続きしたばかりにこんなことになってしまったのもあり、余計参っていたようだ。彼女はわたしの家に来てから、ずうっと寝ていた。最初の一月はまだその職場との契約が切れていなかったらしく、仕事に行く以外はほとんど寝ていたんじゃないだろうか。せめてもと、お弁当を作って持たせたりした。

この間、私も遊んでいた訳ではなかった。私の大学、中でも私の学科は卒論の選考が厳しく、何年かに一度卒論が所以で卒業できない学生がいるような、そういうところだった。

だからずっと卒論をしていた。正直この時期の記憶はあまりない。

彼女が来てから、なぜか人が来ることが増えた。

わたしは昔から小さな決まりごとも守るタイプで、未だにそれらに違反することに小さな罪悪感を覚えている。寮則を破るのはいい気がしなかった。破ったことがバレれば最悪退寮だったからだ。正直、わたしはここ以外の家賃は払えそうになかった。退寮になったらと思うと不安でたまらなかった。

けれど楽しかったのもある。

昔から友人と遊ぶことはあまり多くなかった。単純に家がすごく遠かったから、予定を立てなくては遊ぶこともままならなかったという話。

何人かが泊まりに来て、そのうち一人は一週間くらい居た。六畳の部屋で三人で寝ると、なんというか、タコ部屋の趣きがあった。

この間、わたしが交遊費を立て替えという形でほとんど払って居たような気がする。というか、確か払って居た。食事に行っても、彼女に財布を出させた記憶はあまりない。彼女はいつも、頭を下げて居たように思う。

12月の頭、彼女が「お金を貸して欲しい」と言った。家賃の頭金にするのだという。そうか、出て行くのかと思った。まあ監獄に進んで暮らしたがる奴もいまい。わたしは二つ返事でお金を貸した。九万円。一度にそんな額を引き出したのは、二年前、這う這うの体で東京を逃げ出した時以来だった。嫌な記憶が蘇った。ゆうちょのATMで引き出し、ATM前で待っていた彼女に手渡した。わたしがその九万円に触れていたのはたぶん五分にも満たなかった。

結論から言うと彼女はいつまで経っても出ていかなかった。

そのうち、わたしは卒論とのプレッシャーで頭がおかしくなり始めた。もとからおかしかったけれど輪をかけて。でも残念なことに、わたしはどんな病院にかかっても病名1つつかないファッションメンヘラなのだった。つまり、飲むべき薬と言い訳にする理由を持たない。わたしはただ心が弱かった。

頭が変になった原因の1つに、お金が目減りして行くことがあった。

夏の間、それこそ一月に4回しか休まないようなバカみたいなシフトを組んで30万くらいを稼いでいた。卒業論文の時期に働けるとは思ってなかったから、貯金を切り崩しながら暮らすつもりだった。それが減って行く。減っていく。みるみるうちに。笑ってしまった。そうだよお金は無くなるんだよ。わたしは過去の経験からお金がなくなることを極端に恐れていた。その恐るべきことが目の前で起こっていた。

原因の1つに、遅々として進まない卒論があった。

台湾の葬儀をテーマとしたわたしの研究はどん詰まりにあった。元より日本の研究者はほとんどいないため、現地の資料にあたるしかなかった。まあそれは不可能だった。なら数で攻めるしかない。ネットで当たれるだけの資料を集め、留学生の友人の手を借りながら食らいつくことだけがわたしに許された手段だった。

わたしが家で卒論を始めると、彼女は決まって彼氏とのスカイプを始めた。

暇だったのだと思う。わたしはできるだけ無意味に部屋を出ないで欲しい、バレないようにしてほしいとお願いしていたから、それくらいしかすることがなかったのだろう。彼女は楽しげに笑っていた。からから、からから。

 

頭は変になった。

12月の終わり。

人と交際することになった。中学生のときのクラスメイトで、大学一年の時から辛い時に連絡をし合う仲だった。

多分今思えば、逃避行動だったのだと思う。目の前の女の子に時間とお金を浪費して人生を食いつぶされているような感覚から、目を背けたかった。八年前の告白に今ごろ返事をした。ロマンチックで都合が良かった。

クリスマスに交際を破棄した。

重くて重くて潰れてしまいそうだった。もう他人の面倒なんて見たくなかったしみられなかった。もたれかからないで欲しかった。

わたしはひとが思うよりずっと幼くてずっと弱いのに、誰もそれをわかってくれなかった。わかってくれないのが面白かった。なーんだ、やっぱり皮膚の向こう側は宇宙なんじゃん。安心した。宇宙なんて途方のないものは憎めないから。

わたしの頭は完全におかしくなった。

覚えていることがある。

鼓膜を撫で摩る鉄と鉄の重苦しい擦過音。新宿の高架下でわたしはずうっと立っていた。何時間もそうしていた。だんだん人が少なくなって、新宿のくせに、寂れた商店街みたいな人通りになった。たまに目の端に、泥酔したサラリーマンの影がもやみたいに朧に過って、フロントガラスに落ちた雪みたいに消えていった。

あれは夢だったのかもしれない。ガタンゴトン、音と振動が内臓に触れては離れていく。

そのうち音がやんだので、わたしは当てもなく歩きはじめた。明るいところをぐるぐるしていた。立ち止まったことはなかったと思う。だってすごく寒かった。どうしようもなく寒かったから、立ち止まってしまったらきっと翌朝には冷たくなっておはようって新聞に載ることになっていた。

その間、誰かに話しかけられた記憶はない。

それどころかあの日、わたしがどうやって帰ったのかもわからない。わたしは平気な顔をして寮に帰った、のだと、思う。まるで何にも考えてないような顔をして。

 

気がつくと2015年は終わっていて、わたしの手の中には継ぎ接ぎだらけの見苦しい卒業論文だけが残っていた。都合のいい論議を難解げなことばで虚飾した何万字。これがわたしの四年間と思うと面白かった。とても笑えた。

1月16日。

仙台にいた。人に会うためだった。

高速バスで、夕方に着いて翌日に帰る。何がしたかったのだったっけ。あまり覚えていない。嘘。理由なんてない。とにかくその人に会わなくちゃいけないと思っていた。会えた。

嬉しかった。

その人と別れると、わたしはフラフラと仙台駅前を歩き回った。ホテルなんてとっていなかった。行くあてなんて土地勘もないしあるはずがなかった。

きゃらきゃら、女の笑い声がした。わたしの声だった。溶け残った雪を踏みしだきながら気が触れたように笑っていた。

気がつくと雪にまみれた明け方の新宿だった。言い訳のように、手の中には萩の月と笹かまぼこの紙袋が握られていた。

 

仙台から帰ってきても、わたしは当たり前に過ごしていた。卒業論文が終わるとすぐにわたしはバイトを再開して引っ越し資金の準備にかかった。サーカスの売店でずっとサンドイッチを売っていた。950円の時給。余ったサンドイッチをよく持ち帰らせてもらった。きらきらするお台場を見ながら疲れた身体で帰るのは面白かった。

二月。わたしは引っ越した。東京を西から東にほとんど横断した。結局お金は足らなくて親に土下座をした。涙の一滴も出なかったので、わたしは甘ったれだなとおもった。ちなみに、うちは実家の床が腐っても張り替えられないようなド貧乏だし、母親は派遣だし、兄は新卒で、父親には縁を切られている。つまりそれなりに底辺にほど近い感じの家庭だった。ありがたいことに、保険証が使えなくなったことは一度しかない。

 

 

 

 

 

助けてと言わなければ誰も助けてくれない世界で助けてって言ったら負けのゲームをしていた。