流寓

スパークリング自我形成

青春ちゃん

青春がいつまで経ってもこなくてそろそろそんなことも言ってられない歳になりつつあってなんなんだろうわたしの人生って怯えている。


我慢していた。いつか報われるのだと信じて丸くなって辛いのが過ぎ去るのを待って所謂型通りの人生の端っこというのに引っかかって形だけはまともな大人になったのだけれど何にも報われなかった。いつかバラ色の青春がくるって思いながら伏していたらいつのまにか青春という年齢がどこかに消え去ってしまった。どこだよわたしの青春。

別に異性とどうこうとか漫画みたいな生活とかじゃないんですよ毎日毎日明日どうやって生きようかとかそんなことを考えなくてよくて好きなことに打ち込めるだけの余裕があって苦しいくるしいって呻きながら自分を殺して我欲や自意識を憎まなくてよければなんだっていいんですよ。自己肯定させてくださいよ。


チャーリーとチョコレート工場という映画を見て死ぬほど泣いたことがあってあれって搾取の物語だったんです。わたしはたぶん青春を搾取されてそれはもう二度と帰ってこない。惜しむくらいならさっさと第二の青春でもやればいいじゃんて思っても人間は学習するのでやる前から諦めている。だってほら、ようやっと一人で好き勝手やれると思ったら母が病気ですって百万円の貯金なんてすぐさまパァでしたあはは  

だから残高がある時はロクなことがないんだ。ジンクスなんてきらいだけれどこれだけ当たると信じちゃいそうで嫌だよ。

育自

腐女子なんですけど頗る地雷が多くて困っています。どうすればいいですか?

 

そもそも私がどのようなものを地雷と呼んでいるかといえば「触れて不快を感じるもの」。所謂俗っぽい意味での地雷概念とそう変わってはいないと思います。わたしは常に不快を感じているらしい。

何故か少し考えてみて「人生がだめ」に落ち着いてしまった。なのでまた無為にわたしの人生の話をします。

 

わたしが生まれ育ったのは北関東のド田舎で、家庭は所謂貧困だった。夜間高校卒の父親と頭が悪すぎて家庭科高校しか行けなかった無資格の母というあたりで察してほしい。そして父方の実家がすぐそばにあり、そこはネギ農家だった。父はそこの長男だった。

わたしには兄があった。優しくて勉強も運動もでき、忍耐にかけてはひとかどのものがある兄。こう書くと褒めすぎなので悪い点も書いておきます。彼は痔です。

よくある兄弟とは逆で、わたしは兄が怒られているところを見たことがなく、それはいつもわたしの役目だった。余計をやっては注意されを繰り返していた。誓って言うが、わたしは注目が欲しくて悪いことをしたことは一度もない。要領が悪かっただけだ。

兄に劣等感を抱くのにそう長い時間は必要なかった。兄はなんでもできたし、親の願いを汲み取ることに長けていた。それに農家の長男で、母方でも父方でも初孫だった。

いつも二の次だったとは言わない。兄は常にわたしの手を引いて同じところに立たせてくれたし、わたしは前に出たがる子どもになったからだ。少しでも兄にあやかりたかった。わたしは兄のすることすべてを真似する子だったらしい。それは未だに彼になりたいと思っていることに通ずるのだろう。

学校に上がってもわたしは劣等だった。ここで足を引っ張ったのは家の遠さと貧困だった。家が遠いためにわたしは友人と日々遊ぶということができずにいつでも蚊帳の外だった。貧困であるために漫画や服の話題にはついていけなかった。

幼いわたしには理由がわかっていても納得ができなくて、だから自己欺瞞に走った。「わたしは漫画も服も好きじゃないから要らない」「ああいうものは下等なものだ」。ちょうどよく、親はそういったポップカルチャーに対してあまりいい感情を抱いていなかったからわたしはそれを正しいと思い込んだ。拗らせたのは10歳の時で、私の虚弱な精神はあの時に患ってから治っていない。

中学校に上がってそれは一層ひどくなった。部活には入らなかった。家が遠すぎて中学校からわざわざ直通のスクールバスが出ているくらいだったため単純に部活の時間がとれないのもあったし、なにより部活はお金がかかるからだ。兄は科学部に入っていた。兄を憎み始めたのはこのころだった。

わたしは勝手に我慢して勝手に苦しんでいた。

実際のところうちがどれだけ貧困だったのかはわからない。父は肉体労働者だったけれどわたしが実家を離れるまでやめさせられることは無かった。ただ父と母の仲は良好とは言えなかった。わたしたち子供が育つに連れて父は不在がちになった。母はいつも疲れた顔をしていた。わたしは母の手伝いをよくしたが、母の一番は常に兄で揺らぐことはなかった。母は兄の高校受験のために神頼みに縋って発表の時泣いたという。わたしは兄と同じくらい高いレベルの高校に行ったけれど、合格発表の時の母は天気ばかりを気にしていた。その日はひどい悪天候で、後々母は「お前の高校生活そのものだったね」と言った。

高校に入る直前の話だ。

母が仕事をクビになった。当時流行っていた派遣切りというやつで、そのとき初めて母が泣いているのを見た。わたしは兄が高校受験のときそうしてもらったようにご褒美をもらうことをしなかったし、本当は芸術の授業では美術を専攻したかったけれど画材にお金がかかると思って音痴なのに音楽にした。

高校には毎日片道2時間かけて通った。本当は高校から自転車で30分とかからないところに母方の実家があって「そこから通わせてほしい」とお願いしたけれどだめだった。理由はわからない。ただ母は祖父があまり好きではないと言っていた。そういうことだったのかもしれない。

高校一年生の夏休みでとうとう私の頭はおかしくなった。理由はわからない。本当にわからないのだ。わたしは3ヶ月で頭皮を血まみれにしながら10万本の頭髪をすべて抜いた。けれどなぜ自分がそんなことをするのかわからなかった。そんな奇怪な行為に走っているし全世界自分のことを笑っているだろうと思うと誰とも話せなくなった。数人、まだまともだったころに仲良くしてくれた子たちがいて、その子たち以外とほとんどしゃべらないままに高校生活は終わったと思う。記憶がない。勉強はどんどんできなくなった。

センター試験で失敗して本当に行きたかった大学は受験も困難だった。私は名前すら知らなかった大学の名前を受験票に書き、そこに入った。

貧困だったため、大学では大量の書類と引き換えに授業料免除をとった。

親と離れてアルバイトをしながら、わたしはある計画を立てていた。バックパッカーとして世界一周するつもりだった。二年間で100万貯めて大学三年生の時に一年休学し、周遊しようという計画で、死ぬほど苦手な英語もいろいろと勉強した。

破綻がはじまったのは大学一年の初夏。母方の祖父が亡くなった。紆余曲折あり、ついに両親の離婚が決まった。父は養育費として仕送りをしてくれる手はずになっていた。

大学二年の時、その父から一方的に絶縁された。仕送りはなくなった。一番問題だったのは、当時母はうまく仕事を見つけることができずに無職だったということだ。いかに好きではないとはいえ彼女にとっては実の父が亡くなったのだ。しかもちょうど祖父が亡くなったその時、母は同じ屋根の下にいたのに祖父が溺れていることに気がつかなかったという。精神的にも肉体的にも母は限界だったのだと思う。

みなさんは保険証が止まったご経験はおありだろうか。私はこのとき数ヶ月の間を社会保険という後ろ盾がない状態で暮らすことになった。

バックパッカーの夢を諦めよう。大学も辞めよう。

母のことを愛しているかと言われれば当時から返答は困難だった。私には目に見える反抗期がなかった代わりに母への感情はもつれにもつれきっていた。けれど見捨てることはできなかった。わたしは当時住んでいたアパートを引き払って群馬に戻り、母と二人暮らしをはじめた。兄は東北の大学に進学していて帰ってくるのもまれだった。ひとつ言っておきたいのだけれど、彼は大学在学中アルバイトを一切しなかったし授業料免除も取得しなかった。母からの仕送りだけで生活していた。

実家に帰っての生活は極限じみていた。わたしは毎日片道3時間以上かけて大学に通い、土日はだいたい8時間のアルバイトをした(だいたいは皿洗いやガソリンスタンドのティッシュくばりなどの肉体労働だった)。アルバイト帰りに車を運転しながら意識が朦朧として反対車線を逆走したり赤信号にトップスピードで突っ込んだりというのは一度や二度ではない。よく死ななかったなと思う。

肉体が悲鳴をあげて半年もたたずに東京に帰った。その次の春になれば兄が就職する。そうなれば少しは楽になるはずだと思った。

兄は群馬に帰ってきた。就職はしなかった。

私はその年の冬、ついに頭が変になった。喜びや楽しみという感情が分厚い壁の向こうにあるような、そんな感覚になってしまったのだ。私は少ないお金をかき集めて精神科にかかった。結果としてはどんな病気でもないというのが結論だった。この症状はもう慣れてしまっただけで治っていない。わたしは喜びの感情に乏しい。

大学四年の冬に人を拾った。私は大学の卒論や懇親会や卒業旅行を諦めてそのひとを養って得たものと言えば一枚の借用書だけだった。彼女を養っている間くらいから、物欲という物欲がどんどんなくなっていった。というか、理想を抱くということが困難になっていった。今、私はどんな夢もいだくことができない。何がしたいのかもわからない。好きなものがない。

 

地雷の話に戻ろう。私の陳腐な人生を開陳してわかることというのは私が常に劣等としての幼少期を過ごしたこと、貧困に苦しみあらゆる欲しいものを諦めてきたこと、そして好きなもの、喜ばしいもの、楽しいことを見失っているということだ。

劣等として生きる中で自己肯定するための方法として、私は合理化と他人を認知しないという方向に逃げた。ポップカルチャーは悪だし、誰も許容してくれやしないし、努力しないやつがわるい。そうやって他者を拒絶しないとわたしはわたしを愛せなかった。

あらゆる欲しいものを諦めてきたから本当に欲しいものを見るとまず拒絶してしまう。だって手に入らないじゃないですかそれ。欲しくなりたくないよ。だから好きになれそうなものを見てまず苦痛を感じるようになった。愛別離苦の極みみたいなやつ。好きにならなければ得られないときの苦しみを感じなくてすむ。

好きなもの、喜ばしいもの、楽しいことがわからないくせに不快というのは鮮明で、数えるのが容易い。そしてわたしはかすかな喜びに耳をすませようとするから、余計に地雷を強くふみぬいてしまう。本当であれば見過ごせたような小さなものまで。

こういう経緯で地雷が多い。もともと多く、そしてどんどん増やし、さらにがんがん掘り当てる。そりゃどこにいっても地雷なわけです。

どうすればいいかってそれは自分を育てなおすしかないわけですよ長い時間かけて。自分のほしいものを自分はちゃんと得られるよって教えてあげて、もう諦めなくていいよって自分に優しくしてあげるしかないんですよ。地雷なおしたいねえ。地雷なくなるといいねえ。

ベターハーフの欠如

また無為に愛について語ったのでもうなんていうか早く滅びて塵になりたいです。

 

人を愛したことがありません。おそらくですが。そもそも愛というものの実存についてさえ私は懐疑的なのですが、それはまあ私が軽度の懐疑主義を患っているというだけの話なので割愛せねばなりません。批評家が何を生み出すのかについて口を開く権利、  今の私にはありませんのでね。

恋は下心愛は真心なんてシャレがありますけれどあれを適用するなら私はほとんどの人を愛していることになるんです。けど、それってやっぱり言葉尻をとらえたいい加減な定義です。愛って何だろう。多分理屈ぬきで名前をつけることができるタイプの情動なのだと思う。そうすると、私はやはり愛も恋もしたことがない。

孤高を気取っているわけじゃないんです。私だってできるなら誰かを愛したい。誰か気のおけない人とこれから長い時間を一緒に楽しく生きて、その人がいればなんだか完全無欠になったような気持ちになれたら最高です。ベターハーフってとても素敵な概念ですよ。

愛が理解できないので愛されるという感覚もわからないらしい。最近そのことが幽霊のようにずっとつきまとっている。私は愛されたいなんてひとつも思ってないくせに愛されないと嘆いていて、愛されていると頭で理解しても実感として得られない。心の不感症ですか?病院に行ってください。残念でした、とっくに精神科に通って何にもないって言われました。

 

2014年10月20日。誰に言っても信じてもらえないけれど私はあの日にやっぱり死んだのだと思うし、それから私はずっとずっと死んだままだ。ここにいる私は亡霊で、人と交わろうなんていうのが間違っている。

やまいときから

昨日久しぶりに母親と同衾しました。本当は布団は別に用意してたんですが、予想以上に夜が冷えてしまい、夜中に寝ぼけながら母の横に滑り込みました。

あったかいなあ。

気持ち悪いなあ。

母への感情は言葉にし難いですが、「どこか遠くで元気にしていてほしい」なんだなと思いました。あなたの幸せは願っているけれど、わたしはあなたの近くにはいられない。わたしはあなたの横では眠れない。

それが早い段階で分かってよかったです。今回の手術、何かない限りは大事にはならないそうなので、いつか来る日の予習とでも思うことにします。そしてこれを書き留めたことを、書き留めた時の気持ちを、わたしは忘れないでほしいなと思います。

まあ忘れてしまうでしょうけど、忘れてしまったら思い出してください。

押入れの底に仕舞ってだめになった軟膏の匂い。




人生どうしようかなあ、と思っています。

人と生きることに真剣に向き合ってみました。無理でした。じゃあ一人で生きられるのと言われたら無理じゃないけど嫌だなあと思いました。

人が好きです。

こうやって人を好きと言えるようになったのはある人のお陰で、もしもその人がいなかったらわたしは人間不信を拗らせて死んでいたと思います。

言葉が好きです。

ある人の言葉に救われました。ある種、わたしの人生はあの人がその一言を言った時にもう終わってしまったと言っても良い。少なくとも今はそう思っている。これは秘密なんですけど、もう人生のクライマックスは終わったので消化試合なんですよ。

人生どうしようかなあ。

人と言葉と神さまが好きだから新興宗教でも立ち上げようかなあ。

最近とこれからの話

文章を書くと心が整理されるらしいということをすっかり忘れていました。

ここ二日三日は自我が薄く、ふわ~っと1日が過ぎていくので、急に泣き出すことを除けば快適に生活しています。

まだしっかりとした進退が決まってないんですが、週末まで遠過ぎてそれまでに干からびて死んでいる気がするので少しだけ、現状の話でもしようかなと思います。ミーハーなので人がやっていることをすぐに自分もするし、花粉症にもなる……まだ病院に行ってないから、花粉症と確定したわけじゃないですけどね。

 

現状の話。

母が手術をするそうです。

まだどんな病気かというのは聞いてません。この話をしてもらえるのが今週末なので、聞いてみたらどうしようもないようなしょうもない病名だったとかいうオチかもしれません。

まあでも察するに何かしらそういう病気なんだろうなあという感じです。兄にも母にも、詳しい話を聞こうとして黙殺されてる状態なので、最悪のことも視野にいれています。

お恥ずかしい話、この話を聞いてから、涙が止まらないんですよね。まだ詳しい話、何も聞いてないんですよね、ただ手術をしますとしか言われてないのに、まだ何もわかんないのにめちゃくちゃに泣き、現在も気をぬくと泣くので職場で30分に一回トイレに駆け込んでいます。もうあだ名は頻尿さん確定です。人の世、生きにくい。まともなあだ名がついた試しがない。

とんだマザコンですよね。私もそう思います。でもまあ、三親等以内、あと母と兄しかいないんですよね。これいなくなったら、ついに天涯孤独もいいところですよ。天涯孤独。あはは。我ながら面白いですね。よく言うよ。

それで、色々考えてます。具体的な進退については、今度こそ週末を終えてからにしようと思います。昼休憩終わるし、親指も疲れました。

この件についてフォローは大丈夫ですというか、今優しくされると「お前もいつか死ぬんだろうが!」とキレ散らかしナイフを振り回すケモノと化しているので、メンヘラだなあと檻の外からご覧になってあわよくば楽しんでいただければと思います。昨日も上司がくれたホワイトデーのお返しがめちゃくちゃ好きなやつで泣きながら食べ、「上司もいつか死ぬんだよな」と考えてさらに泣いていました。どんなメンタルだよ。